2009年06月25日

満洲国は南方戦線から遠く

満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約により、ソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。

5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。

すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、日本の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。もしここで、ポツダム宣言をすぐに受け入れて降伏していれば、少なくとも広島・長崎への原爆投下は無かったかも知れない。

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またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。

アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす名目と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し、史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員した、アメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。

2009年06月10日

憲法は、多くの国では、憲法典という文書の形で制定

憲法は、多くの国では、憲法典という文書の形で制定される。これを成文憲法(成文法)という。日本国憲法は成文憲法である。成文憲法の対義語は不文憲法である。誤解を招く表現であるが、不文憲法は憲法典の不存在を意味するに過ぎず、憲法が全く文書によって規定されていないことまでも意味するものではない。著名な不文憲法の国としてはイギリスがある。イギリスには成文の憲法典はなく、大憲章(マグナ・カルタ)をはじめとする多くの文書や通常の法律、慣習法などの憲法的規律によって国家秩序が定められている。
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硬性憲法
通常の法令の改正要件に比べて、改正のための要件が加重されている成文憲法を硬性憲法という。これに対して、通常の法令と同様の要件によって改正できる憲法を軟性憲法という。多くの近代憲法は硬性憲法となっており、硬性憲法とすることによって、憲法に示された国家の基本的秩序を軽率に改変できないようにした。

日本国憲法は、改正の要件を「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民…の過半数の賛成を必要とする」(96条)と定め、通常の法律の成立要件である「両議院で可決したとき」(59条1項)よりも加重している。したがって、日本国憲法は硬性憲法であると言える。

硬性憲法であっても、日本のように改正の少ない国もあれば、ドイツやフランスのように頻繁に改正する国もある[1]。また、イギリスのように、軟性憲法かつ不文憲法であっても、憲法的規律を容易には変えない国もある。

人権・統治規定
憲法には多くの場合、表現の自由や選挙権などの国民の権利についての規定(人権規定)と、立法府や行政府などの国家統治の基本的な組織についての規定(統治規定)が盛りこまれる。この人権規定の背後には自由主義があり、統治規定の背後には民主主義がある。これが近代的意味の憲法の特質である。日本国憲法も、人権規定と統治規定を含む。

特色
立憲君主制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国防軍の文民統制なども多くの国で採用され、憲法典に定められている。日本国憲法でもこれらの多くが採用され、さらに、象徴天皇制というかたちの立憲君主制や、戦力放棄規定、刑事手続(犯罪捜査・裁判の手続き)についての詳細な規定など、日本国憲法に特徴的なものもある。

これら個々の規定・条項にも増して重視されるのは、憲法が国家の基本的な秩序を定めた最高規範であるということから、その背後にある、国のあり方についての理念である。これを「主義」「原理」「原則」などと表現することもある。日本国憲法では、この理念の中心に「個人として尊重」(13条)、「個人の尊厳」(24条)という個人の尊厳の原理(個人主義ともいう)を置く見解が一般的である(異説もある)。個人の尊厳の原理は、人間の人格不可侵の原則とも言う。個人の価値を裁定するのは人間や社会ではなく、一人一人の個人は人間として最大限の尊重を受けるという考え方である。ここに、利己主義や、放縦な他害行為を容認するという考え方とは厳しく区別されねばならない。

2009年06月06日

美濃焼(みのやき、Mino Yaki - Mino Ceramic Ware)

美濃焼(みのやき、Mino Yaki - Mino Ceramic Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を産地とする陶器である。

1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。

平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代には「黄瀬戸」の原型が焼かれ始める。室町時代瀬戸の陶工が戦火を逃れ美濃に入る(瀬戸山離山と言われる)。桃山時代に「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となる。江戸時代初期に青磁器風陶器「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
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桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる陶器。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 - 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。 

2009年04月23日

飛鳥時代

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。狭義には、崇峻5年(592年)から持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。 以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。

この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている。

現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代として区別する事がある。

推古朝
538年(宣化3年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明2年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻元年)には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。604年(推古12年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた。

607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

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国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方行政的な性格を持つものである。

推古29年(621年)に摂政であった厩戸皇子が、同34年(626年)には蘇我馬子が、さらに、推古天皇は36年(628年)に没し、36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。


2009年04月19日

国際連合の成立

第二次世界大戦の勝敗が明らかになると、アメリカ・イギリス・ソ連など主要連合国は大戦中から構想されてきた戦後世界秩序の具体化に着手した。

1945年10月には、国際社会の平和と安全の維持をめざし、6月のサンフランシスコ会議で連合国50か国によって採択された国際連合憲章をもとに、国際連合が誕生した。国際連合は本部をニューヨークにおき、紛争解決のための軍事力行使を決定できる安全保障理事会が設け、アメリカ・イギリス・ソ連・フランス・中華民国の5か国を拒否権をもつ常任理事国とした。国際連合は、世界の安全保障とともに、経済・社会の発展のために協力することを目的としており、経済社会理事会には各種の専門機関、補助機関も設けられた。

東西冷戦体制の成立
アメリカの主導下に戦後世界秩序の形成は進んだが、しだいにソ連がアメリカに対抗する姿勢を明らかにした。ソ連はナチス支配から解放した東ヨーロッパ諸国を勢力下においたが、その影響が西ヨーロッパに及ぶことをおそれたアメリカは、1947年にトルーマン・ドクトリンを発表して、ソ連「封じ込め」政策を打ち出し、マーシャル・プランを提唱した。それにより、西欧諸国の復興は本格化したが、援助計画の受け入れを拒否したソ連は、東欧諸国の社会主義化を強行し、47年にコミンフォルム(欧州共産党情報局)を設けて各国共産党の団結をかためた。

こうしてアメリカを盟主とする西側、ソ連を中心とする東側の二大陣営が形成された。両陣営の緊張は、分割占領下のドイツをめぐって高まり、まもなく、1948年のソ連のベルリン封鎖をきっかけとして、ドイツは東のドイツ民主共和国と西のドイツ連邦共和国に分断された。ソ連も原爆実験に成功し、西側のNATOに対抗して東欧諸国とのあいだにワルシャワ条約機構を結成した。アメリカは、アジア・太平洋方面などでも各地域ごとに地域集団防衛条約機構を組織し、「冷たい戦争」とよばれた米ソの対立は世界的なひろがりをみせた。

アジアの分断国家

米ソを中核にして戦後世界秩序が形成されていくと、アジアでも激しい内戦がおこり、国家の分断という事態が生じた。

中国では、大戦後、国共内戦に突入し、農民の支持をえた共産党が勝利して、1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。新中国は、地主制の撤廃と社会主義社会の建設に着手し、50年、中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。共産党政権のもとで、1953年より農業の集団化がはじまり、1958年以降大躍進運動が展開されるなかで政社合一の人民公社が組織された。また、ソ連の援助により重工業の建設にも力をいれ、1960年代はじめには大慶油田の開発にも成功した。内戦に敗れた中国国民党は台湾にのがれ、中華民国を維持し、1952年には日本との間に日華平和条約を締結して国交を回復した。

日本の植民地支配が終わった朝鮮半島では、米ソに分割占領されたのち、1948年、北緯38度線をはさんで南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ成立した。北朝鮮軍の南侵により1950年にはじまった朝鮮戦争では、それぞれがアメリカと新中国の支援を受けて一進一退の戦いを展開し、3年後には板門店で休戦協定を結んだ。しかし、これにより半島の南北分断は固定化されることとなった。

ベトナムでは、大戦終結直後、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したが、植民地の維持をはかるフランスは南部にコーチシナ共和国、ベトナム国など別の政権をたててインドシナ戦争(第一次)が起こった。これにやぶれたフランスは54年のジュネーヴ協定により撤退したが、かわってアメリカが介入し、その支援により南部にベトナム共和国が建てられて、南北分断は解消されなかった。

1951年のサンフランシスコ平和条約によって独立を回復した日本では、アメリカとの密接な軍事的・経済的協力関係のもとに経済の復興がすすめられたが、沖縄はその後も米軍占領下にのこされた。1956年には日ソ共同宣言によってソ連との国交を回復し、国際連合に加盟したが、両国のあいだには北方領土問題がのこされた。

アジア・アフリカの独立

大戦中、日本に占領された東南アジア諸地域では、戦後つぎつぎに独立国が誕生した。

抗日運動がもっとも活発だったフィリピンは、1946年フィリピン共和国として独立した。オランダ領東インドでは、1945年8月、国民党のスカルノを指導者としてインドネシア共和国の成立が宣言された。オランダは武力介入を行ったが敗退し、インドネシアは1949年に独立を達成してスカルノが初代大統領となった。仏領インドシナでは、ベトナムのほか、1954年にカンボジアが完全独立をはたし、ノロドム・シハヌークのもとで中立政策をすすめた。ラオスも1953年に正式に独立したが、左右の政治勢力の対立は内戦に発展した。

イギリス植民地でも、インド・ミャンマーなどが民衆運動により独立を達成した。インドでは1947年にインド独立法が制定され、インド連邦とパキスタンに分離独立したが、そのためヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が各地で激化し、両教徒の融和を説いたガンディーは、狂信的なヒンドゥー教徒によって暗殺された。インドは初代首相ジャワハルラール・ネルーのもとで、1950年カーストによる差別禁止など社会の近代化をめざす憲法を発布し、連邦共和国となった。スリランカは、1948年、イギリス連邦内の自治領となり、ミャンマーは同年、イギリス連邦から離れて独立した。マレー半島は、1957年にマラヤ連邦となり、さらに1963年シンガポールおよび英領ボルネオと合体してマレーシア連邦となったが、1965年には中国系住民が多数を占めるシンガポールが分離独立した。

パレスティナでは、ヨーロッパから移住したユダヤ人が1948年にイスラエル国の独立を宣言すると、アラブ連盟に結集して統一行動をめざしていたアラブ諸国とのあいだでパレスティナ戦争(第一次中東戦争)が起こり、約100万人のアラブ系住民が土地を追われてパレスティナ難民となった。

エジプトでは、1952年、ムハンマド・ナギーブやガマール・アブドゥン=ナーセルらの指導する将校団が王制を倒し、翌年に共和国を樹立するエジプト革命がおこった。ナギーブとナーセルの対立ののちナーセルが政権をにぎると、積極的中立政策をとなえて社会主義国に接近する姿勢をとり、英米はエジプトへの経済援助を停止した。ナーセルは1956年、アスワン・ハイ・ダムの建設資金をえるためスエズ運河の国有化を宣言したが、これに対しイギリス・フランス・イスラエルが武力干渉を行い、スエズ戦争(第二次中東戦争)となった。ナーセルはこれをしりぞけ、米ソも3国の軍事行動に警告したので3国は撤退、エジプトは運河の国有化を断行し、アラブ民族主義において指導的役割を果たすこととなった。

その後、アラブ諸国では民族主義と反帝国主義の運動がひろまり、1958年にはイラクでも自由将校団による革命がおこって王政がたおされた。また、1960年にはアラブ産油国を中心として、石油輸出国機構(OPEC)が結成された。

フランス支配下の北アフリカ地域では、1956年にモロッコ、チュニジアが独立した。アルジェリアでは、独立に抵抗するピエ・ノワールとよばれたヨーロッパ系入植者や現地軍人と、アルジェリア民族解放戦線(FNL)とのあいだでアルジェリア戦争がつづいたが、1962年に独立が達成された。

百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ


1950年代後半には、脱植民地化の波はサハラ砂漠以南のアフリカにもおよび、1957年にクワメ・エンクルマを指導者とするガーナが最初の自力独立の黒人共和国となった。1960年にはナイジェリアやカメルーンなど17の独立国家がいっきょに誕生してつぎつぎに国連に加盟し、この年は「アフリカの年」とよばれたが、ベルギー領コンゴでは独立直後にコンゴ動乱とよばれる紛争が起こった。1963年、アジスアベバでひらかれたアフリカ諸国首脳会議には30か国が参加し、アフリカ統一機構 (OAU) を結成して、アフリカ諸国の連帯と新植民地主義との対決をめざした。

また、1960年に独立したナイジェリアでは1967年産油地帯である東部州に基盤を持つイボ族が石油利権の委譲を求め、受入れられなかったことなどからビアフラ共和国の独立を宣言した。ナイジェリア政府はこれを認めず軍事制圧を図り、1970年に降伏させた。

「黄金期」資本主義経済と南北問題

第二次世界大戦後の世界輸出が戦前水準に復帰したのは終戦3年後の1948年であり、第一次世界大戦後にはそれが1924年まで5年を要したのと比較して速かった。また、第二次世界後は1930年代のような急激な輸出の縮小を経験することなく、順調な伸びがみられた。輸出価格も朝鮮戦争後、20年近くにわたって安定した。
先進16か国(オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フィンランド、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカ合衆国)の年平均成長率をパーセント表示したもの[5]であるが、ここでは、1950年から1973年にかけての期間がGDP、固定投資、輸出量の成長率のいずれの指標も、資本主義の歴史のなかで突出して高いことが読み取れる。また、1970年代半ば以降のスタグフレーションの進行した時期に比較してインフレ率や失業率が際だって低かったこととあわせ、この時期は資本主義の「黄金期」と称されることがある。

戦後アメリカの経済的繁栄をささえた技術革新は、大規模な大量生産を可能にし、西側先進国の消費生活を大きく変えるナイロンやプラスチックなどの新商品をつぎつぎとうみだし、高等教育の普及や、リチャード・ハミルトンが1956年に製作した「一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか」(Just what is it that makes today´s homes so different, so appealing?, 1956)が始まりとされるポップアート、ロックンロールなどの若者文化、大衆文化の広がりはアメリカ社会を「ゆたかな社会」と印象づけ、西欧や日本をはじめ世界各地に浸透してゆくことになった。

また、60年代はじめには、通信衛星による宇宙中継がおこなわれ、人びとはリアルタイムで地球の裏側の事件やようすまで知ることができるようになった。
世界各地域の輸出入シェア(※印はEEC創設6か国のみの数値)を示したもの[6]である。戦後の輸出成長率には地域間格差がめだつ。ドイツをはじめとする西ヨーロッパと日本の伸びが大きく、世界でのシェアをのばしており、アメリカのシェアは上下があるものの高い水準を維持、それに対し、発展途上国は、一時的に産油国が輸出シェアを拡大したものの全体的にはシェアを下げている。ただし、そのなかにあって1970年代以降のアジアは急速に輸出入を伸ばしていることがわかる。

従来の世界貿易が、先進国と途上国のあいだで一次産品と工業製品の交換というかたちで展開される傾向があったのにたいし、第二次世界大戦後には先進諸国ないし工業国相互の貿易が主流となった。戦後の貿易は、自動車や衣料品に顕著にみられるように、異なったブランド(商標)の製品が先進諸国内で輸入されたり、中間製品と完成品のあいだでの取引が拡大するなど、産業部門内貿易という、従来みられない新しい傾向をふくんでいた。全体としては、欧州経済共同体(EEC)の拡大が目立ち、その域内貿易が1950年代から1960年代にかけての世界貿易の伸びをリードした。

一方、かつて植民地だったアジアやアフリカの諸国では、商品作物栽培や資源供給を強制されてきた経緯から、社会の自立的な発展が妨げられ、独立後もそのひずみから脱却していくことが困難であり、経済発展は順調にすすまず、強権政治やクーデタに悩まされて不安定な社会情勢がつづいた。バングラデシュのジュートやマレー半島の天然ゴムなど、先進工業国における技術革新によって安価な代替商品が生まれ、需要の減退に見舞われたことも痛手だった。また、ラテンアメリカでも、土地所有の偏在や外国資本の支配により、農民の貧困や政治の不安定がつづいた。1959年にはフィデル・カストロの指導によるキューバ革命がおこっているが、それ以外の国ぐにでも、1960年代には、先進国との経済格差がいっそう目立つようになった。こうした「南」の発展途上国と「北」の先進工業国との格差は大きく、やがて南北問題として意識されるようになった。

東西冷戦下の世界のなかで、アメリカなど先進諸国は、これらの地域に投資や援助を増大させて開発を進めることに関心を強めた。緑の革命は、その一例であるが、開発は先進国の基準があてはめられることも少なくなかった。政府レベルでは政府開発援助がおこなわれるようになり、また、国連専門機関として国際開発協会(IDA)が1960年に、補助機関として国際連合貿易開発会議(UNCTAD)が1964年に、さらに、アメリカの主導によって1961年経済協力開発機構(OECD)のなかに開発援助委員会(DAC)が設置されるなど、発展途上国に対する援助体制が整えられるようになった。

2009年04月04日

呼出し太郎伝

1888年、本所南二葉町(現在の墨田区亀沢)の俥屋の長男に生まれた。本名:戸口貞次郎。すぐ隣が大関・初代朝汐太郎の家だったこともあり、相撲の盛んな町に育った。その朝汐の口利きで1898年、11歳のとき呼出親分の勘太郎の弟子となり、朝汐にあやかって「太郎」の名をもらう。入門5年目に小結・源氏山頼五郎以下40余名の脱走事件があり、そのとき太郎も一緒に飛び出している。これが苦労の始まりで、いろいろ地方を渡り歩く長い放浪時代もあり、無謀なことも数々やったが、やがて大坂相撲に縁ができ、呼出として再起。大坂の呼出は、満足に太鼓を叩ける者がおらず、太郎はにわかに頭角を現す。ここで行司の木村金八(のちの木村錦太夫、22代木村庄之助)と知り合い、生涯の交遊が始まる。大坂時代、巡業先で太鼓を質に入れたため、宿でカラの醤油樽を借りて叩いたが、仲間の内誰も気がつかなかったという。その後、昭和時代の幕開けとともに東京と合併。太郎は大坂の呼出を全員、東京に売り込んで男を上げた。親分の下地はそのときからで、太鼓も東京の呼出の誰にも負けなかったという。停年退職した1960年まで63年間を貫き、「太鼓の名人」「相撲界の名物男」「呼出の親分」として知られた。また両国の自宅を長年相撲記者クラブに解放し世話係を務め(停年後も続けていた)、確固たる地位を築いた。この頃はもう櫓に上がることはなかったが、花相撲のおりの「太鼓の打ち分け」はまさに圧巻、独壇場の名人芸だったという。所属が角界一の大部屋、出羽海部屋ということも幸いし、出羽海(元横綱・常ノ花)、春日野(元横綱・栃木山)の両取締とは気軽に口の聞ける立場にあった。16人の呼出の名前が初めて番付に載った1949年5月場所前、太郎は協会で取締に「呼出も番付の隅っこに、名前を載っけて欲しい」と“物言い”をつけたのがきっかけで、「世話人」とともに番付に記載されることになった。これは1959年11月場所、太郎が停年退職する直前まで10年間続いた。1969年11月3日、秋の叙勲で勲六等旭日単光章を受章。相撲界では初めて生存者叙勲の光栄に浴した。1970年1月8日には武藏川理事長、春日野審判部長をはじめ180人が出席し祝賀会が挙行された。席上、高橋義孝横綱審議委員は「醤油樽叩いてもらう勲六等」の句を披露し祝福した。1971年3月3日、83歳で逝去。

エピソード [編集]
1911年2月場所2日目、大関2代西ノ海 - 小結鳳戦は行司の軍配は鳳に挙がったが、呼出の金次郎はこの相撲に物言いがついたとは知らず、「ニィーシ、千年川、ヒガーシ、常陸山」と美声を張り上げたが、勝負検査役に注意されてすごすごと引き下がった。
戦後から昭和30年代前半に、美声の呼び上げで名を馳せた小鉄が、昔旅の汽車の中である横綱からミカンをもらい無理矢理食べたところ、途端に声が出なくなり、後の巡業に差し支えたことがあったという。ある東京本場所のとき取材のため、宿を取っていた小島貞二が小鉄を招き入れミカンを出したところ、「とんでもない!」と言って小鉄は見えないところにミカンを隠したという。小島はタバコとミカンが好物で、タバコの煙は悪いと知っていたつもりが、まさかミカンが悪いとまでは知らなかったという。

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2009年03月20日

特急「はつかり」登場

1958年(昭和33年)10月 常磐線経由で上野駅?青森駅間を結ぶ特急「はつかり」登場。国鉄線東京以北で初の特急列車となった。
この時の改正で、東海道本線を走っていた寝台特急「あさかぜ」が新しく開発された20系客車を使用して寝台専用固定編成列車化(のちのブルートレイン。当時は「九州特急」と称された)され、「はつかり」はそれによって余剰となった旧型客車を使用して運転した。
下り列車の場合、上野発は12時20分で青森着は0時20分、所要時間はちょうど12時間であった(国鉄キハ80系気動車#特急「はつかり」の記事も参照)。
また、この「はつかり」の運行開始に伴い、「みちのく」の盛岡駅以北を不定期化。
1959年(昭和34年)9月 上野駅?青森駅間を運行する夜行列車の編成組成を変更し、「北斗」の編成を寝台車中心に編成し寝台列車化を行い、代わりに「十和田」に座席車組成を行う。
1960年(昭和35年)12月 特急「はつかり」は、使用車両を新しく開発されたキハ80系気動車に置き換えられ、日本初の気動車による特急列車となった。しかし十分な試験走行を行わずに運転を開始したため事故が続出、新聞には「はつかりがっかり事故ばっかり」などと書き立てられた。その後安定した走行が可能になると、大幅にそれまでの所要時間を短縮するようになった。
1961年(昭和36年)10月 「サン・ロク・トオ」と呼ばれる大規模なダイヤ改正を実施。
特急「はつかり」、所要時間を10時間25分に短縮。
上野駅?青森駅間を東北本線経由で運行する夜行急行「八甲田」1往復の運転を開始。
急行「十和田」1往復増発し、2往復になる。
急行「みちのく」の盛岡駅以北の不定期区間を定期化。
1964年(昭和39年)10月 急行「北上」を格上げする形で、東北本線初の寝台特急「はくつる」が運転開始。
「はくつる」には前述した20系客車を使用し、東北本線経由で上野駅?青森駅間を結んだ。なお、この列車の登場により、20系客車を使用した寝台特急列車はブルートレインと称される。
1965年(昭和40年)10月 ダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
急行「北斗」を格上げし、常磐線経由で上野駅?青森駅間を走る寝台特急「ゆうづる」運転開始。
常磐線の平駅(現、いわき駅)?仙台駅間では、常磐線全線電化の成った1967年9月までC62形蒸気機関車が牽引し、「蒸気機関車の牽引する最後の特急列車」として鉄道撮影家から人気を集め、後年に興る「SLブーム」のはしりとなった。また、「北斗」の名称は函館駅?旭川駅間を運行する昼行特別急行列車に使用されることとなる。→こちらを参照されたい。
急行「十和田」はこの改正で「おいらせ」の統合等により増発、4往復に。
「みちのく」も上野から東北各地への多層建て気動車急行として1往復増発され、上野駅?青森駅間で従来より運行していた列車(客車列車)は「みちのく(下り)2号・(上り)1号」と称される。
常磐線経由で不定期急行「おいらせ」設定。
青函連絡船の新造船置き換えに伴って運航時間を4時間30分から3時間50分に短縮。
1968年(昭和43年)10月 「ヨン・サン・トオ」と呼ばれる大規模ダイヤ改正を実施。
東北本線全線電化に伴い、特別急行列車を電車列車化できる様になる。これに伴い、「はつかり」・「はくつる」の全列車及び「ゆうづる」の1往復を昨年に登場したばかりであった583系電車に変更する。
なお、このダイヤ改正で「はくつる」はブルートレイン廃止の第一号となった。
これに伴い、「はつかり」は全区間東北本線経由に運転経路を変更。また1往復増発され2往復となる。
「ゆうづる」客車列車1往復・電車列車1往復の2往復となった。
列車愛称の統合が行われ、急行列車群は以下の通りとなる。
東北本線経由の「三陸」(さんりく)を「八甲田」に統合。「八甲田」昼・夜行1往復ずつの2往復での運行となる。
なお昼行は「三陸」時代に引き続いて支線区直通列車を併結していた。
常磐線経由で運行していた「みちのく(下り)2号・(上り)1号」を「十和田(上り・下り)1号」と改称し「十和田」は昼行1往復・夜行4往復の5往復体制になる。
これにより、「みちのく」上野駅?青森駅間運行列車の愛称としては一旦消滅。ただし、「みちのく」は1970年(昭和45年)9月まで、上野駅?原ノ町駅?陸中花輪駅?弘前駅間等を運行する列車として残る。下記を参照されたい。
不定期急行「おいらせ」廃止。
1970年(昭和45年)8月 旧盆時期の急増する帰省客へ対応するための臨時列車として、「はつかり51号」(上り・下りとも)が常磐線経由で運行される。
これは、仙台駅?青森駅間を運行していた「とうほく」を上野駅まで延長する形をとったが、多数の奥羽本線直通臨時列車が設定された東北本線経由ではなく、ダイヤに余裕があった常磐線経由で運行された。当時、定期列車の「はつかり」は全線東北本線経由で運行されていたことから、乗車してから福島駅・郡山駅方面へ経由しないことによる苦情があったとされる。
1970年(昭和45年)10月 ダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
急行「八甲田」のうち、昼行列車1往復を支線区直通編成廃止の上、特急「はつかり」に格上げ、「はつかり」は1往復増発されて3往復になる。
急行「十和田」1往復格上げの形で、特急「ゆうづる」も電車で1往復増発、「十和田」は4往復(内昼行1往復)、「ゆうづる」は3往復に。以後、上野駅?青森駅間運行夜行列車は、常磐線経由の「ゆうづる」が逐次増発されるが、これは、東北本線では上野駅?宇都宮駅間に中距離電車が多数運行され、また上野駅?福島駅間にも奥羽本線経由の夜行列車を多数設定しており、これらの区間のダイヤに余裕がなかったためとされる。
1970年(昭和45年)12月?1月 年末年始の帰省客への対応として、「はつかり51号」と同じ常磐線経由で運行する「常磐はつかり」が運行される。
列車名に「常磐」を挿入したのは、夏に運行した際に経由地が異なる臨時「はつかり」への苦情を受けてのことである。なお、翌1971年(昭和46年)からは当臨時列車は東北本線経由に変更される。
1972年(昭和47年)2月 札幌オリンピック開催にともない、上野駅?青森駅間を運行する臨時特別急行列車「オリンピア1号」が運行される。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

概要としては、上野駅?青森駅間を昼行特急列車として運行し、青函連絡船深夜便を介して函館駅?札幌駅間を運行する「オリンピア2号」に接続するダイヤを組んでいた。
1972年(昭和47年)3月 以下のようにダイヤを変更する。
特急「はつかり」1往復、東京駅に乗り入れ。
特急「ゆうづる」、電車で1往復増発、4往復に。
昼行急行「十和田(上り・下り)1号」を格上げする形で、上野駅?青森駅間を常磐線経由で運転する特急「みちのく」1往復を、583系電車で設定。上野駅?青森駅間常磐線経由昼行特急が約4年ぶりに復活する。

2009年03月05日

封神演義

元は紀元前の商周革命に神怪的な要素を加味して作られた文学作品であり、古くから芝居や講談の題材として扱われ、中国民衆の間で広まった。 なお、中国の一般の人々の道教の神々に関する知識は、この書を元にしていることが多い。

作者について
『封神演義』の作者には諸説あり、明確に定まった説は未だにない。最古の版本である『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』には、許仲琳編と記されている。また、冒頭部分を許仲琳が書き、その後、序文を記している李雲翔が手を加えたという「許仲琳・李雲翔合作説」もある。その他、道教方面において著作の多い陸西星の作とする説もあるが、成立年代の問題などから疑問視する声もある。

また俗伝承として、『金瓶梅』の作者である王世貞が朝廷より『金瓶梅』の中身を見せるよう命じられたため、慌てて一夜で『封神演義』を書き上げて差し替えた……というものもある。

版本について
現存最古の版本は明代の『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』で、日本の内閣文庫に所蔵されている。清代には褚人獲によって「四雪草堂本」と呼ばれるテキストが出された。中国や台湾で一般的に流布している活字本の内容は、これに基づくことが多い。四雪草堂本と『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』のストーリーはほぼ同じだが、第九十九回の封神榜に名を連ねたメンバーが大幅に異なる(特に群星正神がかなり異なり、『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』では戦死したにも関わらず名が載っていない人物が数多くいる)。

また清代には「蒙古車王府曲本」と呼ばれる口語体の二百二十回本も書かれたが、これは『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』とは大幅に内容が違っている。

作品の評価
中国の四大奇書としては古くより『西遊記』、『三国志演義』、『水滸伝』、『金瓶梅』が挙げられ、本書の評価はそれより一段低いものとなっている。例えば魯迅は『中国小説史略』で「『水滸伝』に比べたら幻想的に過ぎ、『西遊記』に比べたら雄偉さに欠け、今に至るまでこの二作品と同列であると見なした者はいない」と酷評している。また、斉祐焜は『明代小説史』(中文・浙江古籍出版社)で「『封神演義』は思想面でも芸術面でも、作者が意図した『小説界に於いて水滸伝と西遊記と共に鼎立する』という抱負を果たすことは到底できなかった」と評している。一方で「だがそれでも『封神演義』は中国小説史で一定の重要な地位を占める」とも記している。

このように文学面での評価は芳しくないが、古くから伝えられていた説話に変わって『封神演義』のエピソードが広まったり、架空の神格であるはずの通天教主や申公豹の廟が立って実際に信仰されたりと、中国の民間信仰に与えた影響は大きく、文化的には重要な作品であると言える。

講談社の日本語版訳者の安能務は三大怪奇小説[1]として『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』を挙げた後、怪奇性の高さを理由に、『水滸伝』より『封神演義』が相応しいと推している。しかし、研究者の中にはこの選別に疑問を挟む声もある[2]。また民間での評価が高く知識人の評価が低い理由として、安能は、儒教の影響(儒教で理想とされる周公旦を持ち上げるため、太公望が活躍する本書の価値を不当に貶めた)を挙げている。だがこの主張には矛盾があり[3]、士大夫階級の人間が小説を問題視し禁書扱いすることは『封神演義』に限ったことではないため、安能の主張を批判する声もある[2]。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

前史
「太公望(姜子牙)が封神を行った」という故事自体は、古くは『史記』封禅書の記述の中に見られる。直接の前身となった作品は、元の至治年間(1321-1323)以前に成立したとされる歴史小説『武王伐紂平話』である。また『封神演義』の作者は明代の余邵魚の小説『春秋列国志伝』も同時に参照していたと言われている。『封神演義』の骨組みはこの二作品のストーリーとほとんど同じだが、『武王伐紂平話』と『春秋列国志伝』があくまで歴史小説であるのに対し、『封神演義』は神怪的要素が加味された神怪小説である点で、前者二作品とは大きな違いがある。

その他『西遊記』『八仙東遊記』といった作品や、『三教源流捜神大全』などに収められた各地の民話伝承なども元になっているとされ、複数に渡る関越えの戦闘描写などは『三国志演義』の影響も受けているとされる。

日本での普及
日本でも古くから読まれ、江戸時代に好事家が既に読んでいた記録があり、大正時代にはこれを論じた論文も発表され、中国文学の専門の辞書にも掲載されており、魯迅も「中国小説史略」(平凡社東洋文庫1.2)において取り上げていた。ただし、一般への普及は極めて遅く、1989年に安能が講談社文庫『封神演義』(上・中・下)を通して紹介してからである。実際には、1977年に木嶋清道が既に翻訳を行い出版していたが、ほとんど普及していなかったために、安能はそれ以前の封神演義に関する日本語文献を発見できず、儒家がこの小説を異端視して普及させなかったと、誤解に基づく主張を行い、孔子を罵ってしまったほどであった。また、この際の内容は、原典を元にしつつも、殺戒を『殺人欲求』と解釈したり、天数や封神事業を理不尽な天界の陰謀として扱ったりするなど、作品の根幹部分から細部に渡るまで安能による改変がかなり加えられた、いうなれば「超訳」であった。

ただし安能氏にとって本作は単なる翻訳ではなく、のちに小説形式で展開していく「中華思想論のための布石」という位置づけであり、本作に多く加えた改変は安能氏の「意見」である、と「八股と馬虎」のあとがきに述べている。

知名度が上がり広く流布したのは、1988年に講談社文庫から訳書が刊行されてその奇想天外な面白さが『本の雑誌』等で話題になり、また1990年代以降に藤崎竜(集英社)の漫画など若年層向けメディアに取り上げられてからのことである。本ページの後の項も参照。

原型に一番近い形で読める日本語版は、光栄(現・コーエー)の『完訳 封神演義』(上・中・下)と言われている。ただ一部訳されていない詩があったり、底本が『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』ではなく簡体字の活字本であることからの漢字の間違いが一部で見られる。

2009年02月14日

絶対地球防衛機 メガラフター

近未来、地球は宇宙からの侵略者に狙われていた。 迫り来る宇宙からの侵略に対抗すべく、人類は『地球防衛軍』及び巨大ロボット『メガラフター』を完成させた。だが、宇宙人の持つ科学技術は地球人類のそれを十歩は先に行っている。まともに戦えば勝ち目は無い。 そこで突き止められた宇宙人の弱点。それは『ユーモア』であった。進化の果てに笑うことをやめた宇宙人を笑わせることで、戦う気を無くそうという作戦だった。 かくして、地球に平和を、宇宙人の心に笑いを取り戻すために、メガラフターは立ち上がった。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

朝日奈 真一
主人公。夢を追い求める悩める青年だったが、その身に『Yの紋章(ユーモアの紋章)』を宿すことから、パスタにスカウトされて、メガラフターのパイロットになる。笑いを愛し、笑いを与えるためにはどんな困難にも立ち向かう熱血漢。身体も頑丈で、リウの生み出すボールライトニングの直撃を受けても平気なほどだが、その代わりに頭は人並み以下に悪く、いろんなことをすぐに忘れてしまう。
桐山 ヒカリ 声:西田こむぎ
真一より1歳年上の幼馴染。極東基地の置かれているA市の市役所に勤めており、地球防衛軍付市民被害監視係となったことで、司令室にもよく出入りしている。クールな性格で、その氷の眼差しは、真一はもちろん、地球防衛軍の人間も怯ませるほど。しかし、子供や動物には優しく、良くなつかれている。幼い頃に、真一の目の前で『ある事故』に巻き込まれたことがある。
ムラマツ・パスタ 声:草柳順子
地球防衛軍極東基地の司令官。『総合企業メガエンタープライゼス』からの出向者。容姿は幼いが、戦闘時には司令官として的確な指示を出せる優秀な人。同時に『委員会』への報告業務や予算のやり繰りなどにも頭を悩ませる苦労人でもある。落ち込むと、周囲の迷惑も顧みず大量のカレーを作り始める。頭から謎のアンテナが生えているが、誰もそのことを深く追及しようとしない。
響 七海 声:吉川華生
地球防衛軍極東基地のオペレーターを務める、自衛隊からの出向者。的確なオペレートでメガラフターや極東基地全体をサポートしている。実は、大の特撮マニアで寮の自室には特撮映画のポスターやプラモデルが多数飾られている。その特撮知識をいかした発言をするも、周囲に理解されずに寂しい思いをすることもしばしば。なお、この特撮マニアぶりは、同じくマニアである両親の英才教育を受けたたまものであり、そもそも自衛隊に入隊したのも、特撮好きが高じてのことである。
万城目博士
地球防衛軍極東基地の科学者。宇宙人の襲来を予測し、メガラフターの核となる『マテリアル理論』を完成させた。地球防衛軍の上部組織である『委員会』の委員でもあり、極東基地では一番偉い人とされている。しかし、その性格はマッドサイエンティストそのもので、世間の常識よりも自らの探究心を優先させるほど。挙句の果てには、自らの研究を「女神様のお告げ」と言うなど、その言動は常人の理解から遥かにぶっとんだところにある。
SNPI(カエル)
地球防衛軍で開発された小型ロボット。その名のとおりカエル型をしている。会話能力を備えており、周囲の人間たちよりも常識的な発言をすることが多い。通常は真一と行動を共にしており、メガラフター搭乗時にも同乗してサポートをしている。何故か味覚まで持っているようで、パスタ特製の激辛カレーを口にしたときには、あまりの辛さに暴走し、その挙句にカレー鍋に突っ込み、爆発したこともある。
ロード・デバルタージュ
メガラフターが危機に陥ると、どこからともなく現れメガラフターを助ける、謎の仮面貴公子。生身の身体で巨大なUFOロボと互角以上に戦うなど、その能力は、明らかに地球人以上。
ジョナサン・クヒオ
航空宇宙軍の戦闘機パイロット。地球防衛軍との共同作戦の際に登場後、ちょくちょく極東基地に顔を出す。七海に惚れており、本人の困惑や周囲の迷惑にお構いなくプロポーズを繰り返している。なお、彼を始めとする戦闘機パイロットの皆さんは、特撮のお約束的に毎回出撃しては、あっさりと撃墜されているが、ちゃんと脱出装置が働いているらしい。
けーこ
次回予告を案内する際に現れる『運命と世界の管理人』を自称する女性。後ろ姿のみで顔は画面に出てこない。

宇宙人(レティキュリアン)
大宇宙の彼方からやってくるよその星の人。彼らの多くは『汎銀河同盟』に所属しており、地球への侵略においても、決められたルールに則って行うことが義務付けられている。 なお、『レティキュリアン』とは、本来はレティクル座の宇宙人のことを指していたが、やがて異星人全てをそう呼称するようになった。

リウ 声:かわしまりの
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。単体で星系を滅ぼすとさえ言われるレティクル座ゼータ星系人の一人だが、度重なるメガラフターとの敗戦により母星へ帰ることができなくなり彷徨っていたところを、地球防衛軍に保護される。侵略者であったころは勝気で自信家だったが、メガラフターに敗れてからは、自信を完全に喪失してしまった。他の宇宙人と違い、敗北の事実に深く悩み、その原因を突き止めようとする真面目な性格。なお、フルネームは、リウラウラル。
フラットウッズモンスター 声:草柳順子
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。長身で頭に笠のような帽子を被っている以外は、元ネタの宇宙人とは、似ても似つかぬ美少女。人を驚かすことや追いかけることが趣味。普段は、喉をトントン叩いて「ワレワレハ、ウチュウジンダ」としゃべるが、普通にしゃべることもできる。
搖光星人(ようこうせいじん) 声:かわしまりの
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。温泉をこよなく愛し、地球上の温泉を我が物にするためにやって来た。独特の搖光訛り(語尾が"?アル")で話す。
グルドス星人 声:歌織
他のレティキュリアンと異なり、侵略ではなく、善意による警告のために地球にやって来た宇宙人。愛と平和がモットーだが、相手の気持ちを全く考慮しない説得方法のために『侵略者』と誤認されてしまう。なお、元ネタは同じく地球への警告から始まるロボットアニメ。
ステゴロ
グルドス星人のUFOに搭載された人工知能。端末の外見は、サイボーグっぽい猫の姿をしている。口は悪いが、グルドス星人を「姫」「姐さん」と呼んで慕っている。元ネタは某ロボットアニメの敵キャラ。
白山羊星人(しろやぎせいじん) 声:松永雪希
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。別名ニャントロ星人。催眠電波と歌で人間を操ることができる。テンションが上がると、意味も無く歌う癖がある。名前と見た目はヤギなのに、なぜか語尾に「ニャン」をつけるうえに、一人称も「ニャン」。
メフィー=ラ 声:歌織
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。リウと同じゼータ星系人であるが、その実力は遥かに上回る。総司令の懐刀とされ、その命令により『ある物』を探していたが、探索任務を中途で切り上げ、地球侵略にやって来た。
メタトロン星人 声:吉川華生
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。洗脳光線(実際は、相手の欲望を増幅する光線)を用いて、地球防衛軍を混乱に陥れた。頭がよく、知略や悪事に長けているらしいが、七海の話す特撮の侵略知識(宇宙金属の銃を渡した子供たちを操り、大人たちと戦わせるなど)を聞くと、恐ろしさのあまり泣き出してしまった。元ネタの宇宙人と同じく、卓袱台を挟んで会話をする場面がある。
リトルグリーンマン 声:西田こむぎ
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。バナナが大好物で、侵略よりもバナナを優先するほど。他の宇宙人よりも感情を素直に表すが、やはり『笑う』という行為を知らない。個人名は、ガガ。
マーズ星人 声:松永雪希
地球侵略を企むレティキュリアンの一人。太陽系とは別の火星からやって来た。最強の宇宙人と呼ばれ、汎銀河同盟でも恐れられている存在。かつて、ある地球人に自らの来訪を予告したことがあるが、その予告よりも少し遅れてやってきた。なお、公式HPの人気投票では、メインヒロインたちを差し置いて、一位に輝いた。
総司令
汎銀河同盟宇宙軍の総司令。地球人の危険性を強く感じ、様々な手でその危険を排除しようとする。
グレイ
総司令の副官。知性の劣る地球人を見下している。
ロードリアン
侵略要員としてUFOロボの中に大量に詰め込まれている宇宙人たちの総称。地球人からは『宇宙人ズ』とも呼ばれる。固有名詞は無く『A君』『B君』などと識別されており、それぞれが万城目博士の助手になったりして働いている。

2009年01月27日

F-111 (航空機)

F-111はジェネラル・ダイナミクス社が開発した戦闘爆撃機[2]。センチュリーシリーズに数えられることがある

初飛行は1964年で、世界初の実用可変翼機として知られる。公式な愛称を有さなかったものの、「アードバーク(Aardvark)」などの複数の愛称で呼ばれる場合もある。

開発はロバート・マクナマラ国防長官の開発費、及び維持費の削減という狙いを強く反映し、アメリカ空軍とアメリカ海軍で共通の機体を使用させる事から空軍型のA型と艦上戦闘機型のB型の2機種の開発を目指した。しかし、B型は艦隊防空戦闘機としての重量軽減などを実現できず、最終的にはF-111Aのみの採用となった。

ベトナム戦争や湾岸戦争等に投入され、主に対地攻撃任務に用いられた。

アメリカ空軍では全機が退役しており、現在運用している国はオーストラリアのみとなっている。

開発
アメリカ空軍は1958年にF-105の後継として使用するマルチロール機を計画する。当初最高速度マッハ2以上のVTOL機を希望するが技術的に困難であるとして断念。代わりに最高速度マッハ2.5以上の複座戦闘攻撃機を計画した。検討の結果、こちらの計画は実現可能とされたため、1960年10月に各メーカーに提案、12月にはTFX(Tactical Fighter Experimental)計画と命名された。

これと同時期、アメリカ海軍は長距離空対空ミサイルを装備する艦隊防空用戦闘機(FADF: Fleet Air Defence Fighter)を計画していた。この両計画に目をつけたマクナマラ国防長官はコスト削減のため計画の統合を命ずる。その命を受けた空海軍は共通部分についての検討を行うが、空軍の要求は低空を音速で駆け抜けることができる機体、海軍の要求は大型レーダーを装備する並列複座(前後ではなく左右に並ぶ複座)の機体であった。そのため両軍は、結果共通部分は複座、アフターバーナー付ターボファン双発、可変翼(VG翼)の3点のみで計画全体の統合は不可能と結論付けた。

しかしマクナマラ長官は両軍からの同意を半ば無理やり取り付けて計画の統合を推し進め、1961年10月には新たに重量制限などを設けた要求を各メーカーに提案した。これに対してボーイング、ジェネラル・ダイナミクス、ロッキード、マクダネル、ノースアメリカン、リパブリックの6社から設計案が提案され、空海軍とNASAで検討が行われた。その結果、要求を満たさないまでもボーイング案とジェネラル・ダイナミクス案がこの中では優れているとされ、再設計を行わせることとした。ちょうど同時期に正式名称が空軍型F-111A、海軍型F-111Bと決定された。

しかしその後2回の再設計を行うも要求を満たすものではないとされ、都合4回目の再設計が両社に命じられた。4回目の設計案で空海軍ともにボーイング案が優れていると判断し、採用に向けた動きが出てきたが、国防総省はジェネラル・ダイナミクス案の採用を決定する。空海軍を無視した決定は議会でも問題となり、査問委員会が開かれたが、国防総省はジェネラル・ダイナミクス案のほうが共通部分が多く調達価格が低くなると主張し、一応その主張が認められた。ただ、実際のところはテキサス州を地盤としていた当時のリンドン・ジョンソン大統領とその派閥による政治的な圧力があったといわれる[3]。

こうしてジェネラル・ダイナミクス案が採用され実際に製作されることとなったが、空軍と海軍の異なる二つの要求を同時に満たそうとしたため、機体重量は予定をはるかに超えてしまった。海軍はテストを実施したものの、既にこの時点で海軍は採用の意思を失っており、1968年に予算が認められなかったことで、F-111B計画は最終的にキャンセルされた。

1964年10月15日に初公開された3番目の前生産機(機体番号63-9768)
可変翼を動かしてデモンストレーションしているところ一方、空軍型のF-111Aは1964年12月21日に初飛行を行うが、フラップのトラブルのためテストは途中で打ち切られた。このトラブルは致命的な問題ではなかったため、その後のテストは予定通り続けられた。しかしながら、2回目のテストで、より高速域での飛行テストを行おうとしたところ、亜音速域でエンジンのコンプレッサーストールが発生した。当初TF30エンジンに原因があるものと思われエンジンの改修が行われたが、コンプレッサーストールは依然として発生し続けた。その後の調査の結果、エアインテイクの形状に問題があることが判明し、ジェネラル・ダイナミクスは急遽トリプル・プラウIと呼ばれるエアインテイクの改良型を開発、これによりF-111Aは音速を超えることに成功する。しかし、このエアインテイクでも高速域におけるコンプレッサーストールが発生したため、トリプル・プラウIを使用する型にはマッハ2.2(計画値はマッハ2.5)の速度制限がつけられた。この制限は、後に改良型のトリプル・プラウIIが開発されるまで続いた。

その後、1968年にはベトナム戦争に参戦したが、1973年の撤退までに複数機の損失し、1969年12月には急降下爆撃の訓練を行っていたF-111Aの主翼が引き起こしの際外れるという事故が発生した。F-111は7ヶ月間の飛行禁止となり、その間F-111の信頼を取り戻すべく徹底した検査と改修が行われたことで、F-111AはセンチュリーシリーズやF-4よりも高い安全性を得ることとなった。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

特徴

夜間時のF-111のコックピットF-111は実用機として初の可変翼・アフターバーナー付きターボファンエンジン・地形追従レーダーなど当時としては最新鋭の技術を多く取り入れている。そのため初期には問題も多く発生し、失敗作とまで言われたが、その後の改修により優れた性能を発揮した。F-111の後継としてはF-15Eなどが採用されているが、大型の機体であるF-15EもF-111に比べれば最大離陸重量で10t近く軽く、スペック上ではF-111ほどの能力は持ち合わせていない。

ただし、"戦闘”爆撃機を名乗りながらも、実際には対空戦闘能力はほとんど持ち合わせておらず[4]、実質的には専用の攻撃機・爆撃機でしかないという事実も指摘されねばならない。

攻撃機・爆撃機としては非常に優れた機体であるが、「戦闘機」と呼ぶにはふさわしくない性能・特徴は、本機の本来の開発目的に沿ったものではなく、長らくその真価を評価されることを妨げていた一因となっている[5]。

可変翼

パイロンにBLU-107デュランダルを搭載したところ。翼下の様子がよくわかる。
可変翼の動き前述の通り、実用機として初の可変翼を採用している。これはCAS(コントロール増強システム)の導入によって可能になった。可変翼は主翼の後退角を変える事によって飛行特性まで変わってしまうため、F-111以前に試作された航空機においては、操縦性に著しい問題があった。

CASによってコンピューターによる補正を加える事により、安定した操縦を可能にしている。F-111の主翼は16度?72.5度(ただし前縁後退角、以下同)まで、速度に応じて任意に可動させることができる。主翼下には片側4箇所のハードポイント(重量強化点、パイロンを取り付けられる場所)があり、各種兵装の搭載が可能であるが外側2箇所ずつのハードポイントは主翼に固定されており後退角26度以上ではパイロンごと切り離す必要があったため実際には使用しづらかった。内側2つずつのハードポイントは後退角に応じてパイロンの角度が変化するようになっていたが、一番内側のハードポイントは後退角54度以上で胴体と接触してしまうため後退角をそれ以上にする場合はやはりパイロンごと切り離す必要がある。つまりすべての角度において使用可能なハードポイントは内側から2つ目のみであり実際に使用する場合もそこを中心に使用されていた。これらの理由から主翼後退角を可動させるレバーは26度と54度で一度止まるようになっている。

また、後退角26度以上でフラップが使用できなくなり、45度以上でロール制御に使用するスポイラーの内側がロックされ、47度以上で外側がロックされる。そして、それ以上の後退角では、ロール制御は水平尾翼が行うことになるため、これらの点を境に飛行性能が著しく変わる。しかし、ハードポイントの場合と違いレバーは止まらない上、上述のCASの導入によりパイロットは飛行性能の変化に気づかない事になる。そのために後退角を45度以上にしたことにパイロットが気づかず墜落しそうになったという事例がある。これは危険なマンマシンインタフェース(あるいはユーザインタフェース)デザインの一例とされる。

ウェポンベイ(爆弾倉)
ウェポンベイ(爆弾倉)は海軍の要求で装備されたもので、空軍は必要としていなかったため、実際に爆弾を搭載して使用されることは少なかった。FB-111Aを除けば、M61A1機関砲やAN/AVQ-26ペイブ・タック・ポッド(レーザー照射システム)などを搭載していることが多かった