第二次世界大戦の勝敗が明らかになると、アメリカ・イギリス・ソ連など主要連合国は大戦中から構想されてきた戦後世界秩序の具体化に着手した。
1945年10月には、国際社会の平和と安全の維持をめざし、6月のサンフランシスコ会議で連合国50か国によって採択された国際連合憲章をもとに、国際連合が誕生した。国際連合は本部をニューヨークにおき、紛争解決のための軍事力行使を決定できる安全保障理事会が設け、アメリカ・イギリス・ソ連・フランス・中華民国の5か国を拒否権をもつ常任理事国とした。国際連合は、世界の安全保障とともに、経済・社会の発展のために協力することを目的としており、経済社会理事会には各種の専門機関、補助機関も設けられた。
東西冷戦体制の成立
アメリカの主導下に戦後世界秩序の形成は進んだが、しだいにソ連がアメリカに対抗する姿勢を明らかにした。ソ連はナチス支配から解放した東ヨーロッパ諸国を勢力下においたが、その影響が西ヨーロッパに及ぶことをおそれたアメリカは、1947年にトルーマン・ドクトリンを発表して、ソ連「封じ込め」政策を打ち出し、マーシャル・プランを提唱した。それにより、西欧諸国の復興は本格化したが、援助計画の受け入れを拒否したソ連は、東欧諸国の社会主義化を強行し、47年にコミンフォルム(欧州共産党情報局)を設けて各国共産党の団結をかためた。
こうしてアメリカを盟主とする西側、ソ連を中心とする東側の二大陣営が形成された。両陣営の緊張は、分割占領下のドイツをめぐって高まり、まもなく、1948年のソ連のベルリン封鎖をきっかけとして、ドイツは東のドイツ民主共和国と西のドイツ連邦共和国に分断された。ソ連も原爆実験に成功し、西側のNATOに対抗して東欧諸国とのあいだにワルシャワ条約機構を結成した。アメリカは、アジア・太平洋方面などでも各地域ごとに地域集団防衛条約機構を組織し、「冷たい戦争」とよばれた米ソの対立は世界的なひろがりをみせた。
アジアの分断国家
米ソを中核にして戦後世界秩序が形成されていくと、アジアでも激しい内戦がおこり、国家の分断という事態が生じた。
中国では、大戦後、国共内戦に突入し、農民の支持をえた共産党が勝利して、1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。新中国は、地主制の撤廃と社会主義社会の建設に着手し、50年、中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。共産党政権のもとで、1953年より農業の集団化がはじまり、1958年以降大躍進運動が展開されるなかで政社合一の人民公社が組織された。また、ソ連の援助により重工業の建設にも力をいれ、1960年代はじめには大慶油田の開発にも成功した。内戦に敗れた中国国民党は台湾にのがれ、中華民国を維持し、1952年には日本との間に日華平和条約を締結して国交を回復した。
日本の植民地支配が終わった朝鮮半島では、米ソに分割占領されたのち、1948年、北緯38度線をはさんで南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ成立した。北朝鮮軍の南侵により1950年にはじまった朝鮮戦争では、それぞれがアメリカと新中国の支援を受けて一進一退の戦いを展開し、3年後には板門店で休戦協定を結んだ。しかし、これにより半島の南北分断は固定化されることとなった。
ベトナムでは、大戦終結直後、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したが、植民地の維持をはかるフランスは南部にコーチシナ共和国、ベトナム国など別の政権をたててインドシナ戦争(第一次)が起こった。これにやぶれたフランスは54年のジュネーヴ協定により撤退したが、かわってアメリカが介入し、その支援により南部にベトナム共和国が建てられて、南北分断は解消されなかった。
1951年のサンフランシスコ平和条約によって独立を回復した日本では、アメリカとの密接な軍事的・経済的協力関係のもとに経済の復興がすすめられたが、沖縄はその後も米軍占領下にのこされた。1956年には日ソ共同宣言によってソ連との国交を回復し、国際連合に加盟したが、両国のあいだには北方領土問題がのこされた。
アジア・アフリカの独立
大戦中、日本に占領された東南アジア諸地域では、戦後つぎつぎに独立国が誕生した。
抗日運動がもっとも活発だったフィリピンは、1946年フィリピン共和国として独立した。オランダ領東インドでは、1945年8月、国民党のスカルノを指導者としてインドネシア共和国の成立が宣言された。オランダは武力介入を行ったが敗退し、インドネシアは1949年に独立を達成してスカルノが初代大統領となった。仏領インドシナでは、ベトナムのほか、1954年にカンボジアが完全独立をはたし、ノロドム・シハヌークのもとで中立政策をすすめた。ラオスも1953年に正式に独立したが、左右の政治勢力の対立は内戦に発展した。
イギリス植民地でも、インド・ミャンマーなどが民衆運動により独立を達成した。インドでは1947年にインド独立法が制定され、インド連邦とパキスタンに分離独立したが、そのためヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が各地で激化し、両教徒の融和を説いたガンディーは、狂信的なヒンドゥー教徒によって暗殺された。インドは初代首相ジャワハルラール・ネルーのもとで、1950年カーストによる差別禁止など社会の近代化をめざす憲法を発布し、連邦共和国となった。スリランカは、1948年、イギリス連邦内の自治領となり、ミャンマーは同年、イギリス連邦から離れて独立した。マレー半島は、1957年にマラヤ連邦となり、さらに1963年シンガポールおよび英領ボルネオと合体してマレーシア連邦となったが、1965年には中国系住民が多数を占めるシンガポールが分離独立した。
パレスティナでは、ヨーロッパから移住したユダヤ人が1948年にイスラエル国の独立を宣言すると、アラブ連盟に結集して統一行動をめざしていたアラブ諸国とのあいだでパレスティナ戦争(第一次中東戦争)が起こり、約100万人のアラブ系住民が土地を追われてパレスティナ難民となった。
エジプトでは、1952年、ムハンマド・ナギーブやガマール・アブドゥン=ナーセルらの指導する将校団が王制を倒し、翌年に共和国を樹立するエジプト革命がおこった。ナギーブとナーセルの対立ののちナーセルが政権をにぎると、積極的中立政策をとなえて社会主義国に接近する姿勢をとり、英米はエジプトへの経済援助を停止した。ナーセルは1956年、アスワン・ハイ・ダムの建設資金をえるためスエズ運河の国有化を宣言したが、これに対しイギリス・フランス・イスラエルが武力干渉を行い、スエズ戦争(第二次中東戦争)となった。ナーセルはこれをしりぞけ、米ソも3国の軍事行動に警告したので3国は撤退、エジプトは運河の国有化を断行し、アラブ民族主義において指導的役割を果たすこととなった。
その後、アラブ諸国では民族主義と反帝国主義の運動がひろまり、1958年にはイラクでも自由将校団による革命がおこって王政がたおされた。また、1960年にはアラブ産油国を中心として、石油輸出国機構(OPEC)が結成された。
フランス支配下の北アフリカ地域では、1956年にモロッコ、チュニジアが独立した。アルジェリアでは、独立に抵抗するピエ・ノワールとよばれたヨーロッパ系入植者や現地軍人と、アルジェリア民族解放戦線(FNL)とのあいだでアルジェリア戦争がつづいたが、1962年に独立が達成された。
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1950年代後半には、脱植民地化の波はサハラ砂漠以南のアフリカにもおよび、1957年にクワメ・エンクルマを指導者とするガーナが最初の自力独立の黒人共和国となった。1960年にはナイジェリアやカメルーンなど17の独立国家がいっきょに誕生してつぎつぎに国連に加盟し、この年は「アフリカの年」とよばれたが、ベルギー領コンゴでは独立直後にコンゴ動乱とよばれる紛争が起こった。1963年、アジスアベバでひらかれたアフリカ諸国首脳会議には30か国が参加し、アフリカ統一機構 (OAU) を結成して、アフリカ諸国の連帯と新植民地主義との対決をめざした。
また、1960年に独立したナイジェリアでは1967年産油地帯である東部州に基盤を持つイボ族が石油利権の委譲を求め、受入れられなかったことなどからビアフラ共和国の独立を宣言した。ナイジェリア政府はこれを認めず軍事制圧を図り、1970年に降伏させた。
「黄金期」資本主義経済と南北問題
第二次世界大戦後の世界輸出が戦前水準に復帰したのは終戦3年後の1948年であり、第一次世界大戦後にはそれが1924年まで5年を要したのと比較して速かった。また、第二次世界後は1930年代のような急激な輸出の縮小を経験することなく、順調な伸びがみられた。輸出価格も朝鮮戦争後、20年近くにわたって安定した。
先進16か国(オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フィンランド、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカ合衆国)の年平均成長率をパーセント表示したもの[5]であるが、ここでは、1950年から1973年にかけての期間がGDP、固定投資、輸出量の成長率のいずれの指標も、資本主義の歴史のなかで突出して高いことが読み取れる。また、1970年代半ば以降のスタグフレーションの進行した時期に比較してインフレ率や失業率が際だって低かったこととあわせ、この時期は資本主義の「黄金期」と称されることがある。
戦後アメリカの経済的繁栄をささえた技術革新は、大規模な大量生産を可能にし、西側先進国の消費生活を大きく変えるナイロンやプラスチックなどの新商品をつぎつぎとうみだし、高等教育の普及や、リチャード・ハミルトンが1956年に製作した「一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか」(Just what is it that makes today´s homes so different, so appealing?, 1956)が始まりとされるポップアート、ロックンロールなどの若者文化、大衆文化の広がりはアメリカ社会を「ゆたかな社会」と印象づけ、西欧や日本をはじめ世界各地に浸透してゆくことになった。
また、60年代はじめには、通信衛星による宇宙中継がおこなわれ、人びとはリアルタイムで地球の裏側の事件やようすまで知ることができるようになった。
世界各地域の輸出入シェア(※印はEEC創設6か国のみの数値)を示したもの[6]である。戦後の輸出成長率には地域間格差がめだつ。ドイツをはじめとする西ヨーロッパと日本の伸びが大きく、世界でのシェアをのばしており、アメリカのシェアは上下があるものの高い水準を維持、それに対し、発展途上国は、一時的に産油国が輸出シェアを拡大したものの全体的にはシェアを下げている。ただし、そのなかにあって1970年代以降のアジアは急速に輸出入を伸ばしていることがわかる。
従来の世界貿易が、先進国と途上国のあいだで一次産品と工業製品の交換というかたちで展開される傾向があったのにたいし、第二次世界大戦後には先進諸国ないし工業国相互の貿易が主流となった。戦後の貿易は、自動車や衣料品に顕著にみられるように、異なったブランド(商標)の製品が先進諸国内で輸入されたり、中間製品と完成品のあいだでの取引が拡大するなど、産業部門内貿易という、従来みられない新しい傾向をふくんでいた。全体としては、欧州経済共同体(EEC)の拡大が目立ち、その域内貿易が1950年代から1960年代にかけての世界貿易の伸びをリードした。
一方、かつて植民地だったアジアやアフリカの諸国では、商品作物栽培や資源供給を強制されてきた経緯から、社会の自立的な発展が妨げられ、独立後もそのひずみから脱却していくことが困難であり、経済発展は順調にすすまず、強権政治やクーデタに悩まされて不安定な社会情勢がつづいた。バングラデシュのジュートやマレー半島の天然ゴムなど、先進工業国における技術革新によって安価な代替商品が生まれ、需要の減退に見舞われたことも痛手だった。また、ラテンアメリカでも、土地所有の偏在や外国資本の支配により、農民の貧困や政治の不安定がつづいた。1959年にはフィデル・カストロの指導によるキューバ革命がおこっているが、それ以外の国ぐにでも、1960年代には、先進国との経済格差がいっそう目立つようになった。こうした「南」の発展途上国と「北」の先進工業国との格差は大きく、やがて南北問題として意識されるようになった。
東西冷戦下の世界のなかで、アメリカなど先進諸国は、これらの地域に投資や援助を増大させて開発を進めることに関心を強めた。緑の革命は、その一例であるが、開発は先進国の基準があてはめられることも少なくなかった。政府レベルでは政府開発援助がおこなわれるようになり、また、国連専門機関として国際開発協会(IDA)が1960年に、補助機関として国際連合貿易開発会議(UNCTAD)が1964年に、さらに、アメリカの主導によって1961年経済協力開発機構(OECD)のなかに開発援助委員会(DAC)が設置されるなど、発展途上国に対する援助体制が整えられるようになった。